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ヒューマンとグリーン

 大企業が厳しい業績予測を出す中で、日本の経済をどのように立て直していくのか議論が始まっています。一粒ですべてがよくなる「特効薬」などありませんが、いくつかの「有効薬」ならばあります。冬期講習でも話したと思いますが、キーワードはヒューマンとグリーンです。
 ヒューマンとは医療と福祉で、グリーンは農林水産業を含む環境を指す言葉です。電気自動車などの環境指向を強めたり、アメリカ以外の海外市場を開拓して、自動車業界の業績を回復してもらいたいのですが、派遣切りにあった自動車工場の労働者がただちに職場復帰することは容易ではありません。仕事を変えるのはとてもタイヘンなことですが、ヒューマンとグリーンの分野で仕事を開拓し、そこで生計を得られるようにするのも問題解決策の一つです。日本は過去にエネルギー革命という石炭産業から石油産業への切り替えを成し遂げた経験があります。いまはそれに比するような大変革が必要なのかもしれません。
 超高齢化時代を迎えて、医療や福祉に対するニーズはいよいよ高まっています。また、農林水産業では担い手の高齢化が進み、崩壊の危機に瀕しています。需要は海外だけでなく身近なところにも転がっているのです。これらの分野の仕事につき、生計を立てていくことは可能なだけではなく、社会にとってもきわめて重要です。しかし、ヒューマンやグリーンへの切り替えは容易ではありません。
 最大の問題はいずれも重労働のわりに収入が多くない点です。医療や福祉は、この間の構造改革路線の中で、介護報酬や診療報酬が減額されてきました。最近その過ちに気づき微増の動きもありますが、ヒューマンの分野で生きがいを持って働き、生計を立てられるような状況にはなっていません。農林水産業も価格低迷が続き、それだけで生計を立てるのは容易ではありません。介護報酬や診療報酬をあげたり、農林水産業に従事する人の所得保障などが急務ですが、問題は財源です。
 いますぐ消費税を持ち出すべきではありません。しかし、道路、ダムに象徴される重厚長大型に投資してきた行政の構造を根本から改革し、高額所得者に応分の負担をしてもらうなどの「前提条件」をクリアした上で、それでもなおヒューマンとグリーンにまわすべきお金がないときは、私たち国民も増税の是非を議論しなければならないでしょう。もちろん一律に上げるのではなく、生活関連物資と「その他を分けて税率を定めばければなりません(線引きは簡単ではありませんが・・・)。
 雇用を何とかしなければならないのですが、そのためにどのような未来社会を描くのか?そろそろ次のステージに差しかからなければならないのですが、皆さんが生きていく社会でもあります。どう考えますか?
 
# by sosronbun | 2009-02-07 16:11 | 社会科学系論文

最後のチャンス

 あと1週間で慶大文系の入試が始まります。医学部も先日の自治医科大学2次試験など、論文が必要な入試がすでに始まっていますね。何か質問があったら、コメント欄を利用して遠慮なく質問してくださいね。
 また、来週は以下の日程で駿台の各校舎に出かけます。2次・私大演習の個別指導の時間枠なので該当者を優先しますが、直接に質問したい駿台生はお越しください。なお、当初予定していた2/9の立川校は休止となりました。

 ☆2月10日(火)17:00-18:00 横浜校・講師室

 ☆2月11日(水)17:00-18:00 お茶の水3号館・講師室
# by sosronbun | 2009-02-07 15:41 | お知らせ

共感的な態度

 ボクが理事をつとめるNPOぐらす・かわさきのニュースレターに書いたコラムです。人が人を評価することの危うさと悩ましさを取り上げました。どうすれば共感的な態度を身につけることができるのか?自己に対する内省の文章でもあります。ちょっと長いけど読んでみてください。

 川崎市多摩区は「磨けば光る多摩事業」という市民提案型の協働事業を実施しています。今年度の事業額は約200万円です。額は少ないものの、市民の日常的な気づきを活かした公共サービスを生み出す点で意味の大きな事業です。今年度はぐらす・かわさきを含めた7団体が事業を提案し、このうち4団体の事業が選考されました。この提案事業を評価・選考するのが「審査会」です。なお、ぐらす・かわさきは、これまで2度応募しましたが、いずれの提案事業も落選しています。
 だからというわけではありませんが、この選考過程に関する記録を情報公開条例に基づいて公開請求してみました。その結果、「審査会」の会議録、採点表など、「磨けば光る多摩事業」に関するたくさんの文書が昨年秋に公開されました。全国各地で同様の協働事業が広がっていますが、事業の透明性と公正性に疑問のある例も少なくありません。市民と行政との協働が新たな癒着やミニ利権のようなものを生み出しては、せっかくの「芽」をつぶしてしまいます。情報公開を求めたのは、そんな問題意識からです。
 情報はめでたく公開されました。しかし、公開された会議録を読み進めていくうちに、私は少し暗く重い気分になりました。それは、提案事業に対する「審査会」委員の発言の中に、すごく「いやな感じ」の言葉が散見されたからです。
 たとえば、今年度の会議録では、選外となった提案事業について「狙いはよいと思うが、ラフな計画」、「人件費や報償費、募集方法等も具体性が見えない」、「思いつき的でちょっと計画性が甘い」など、委員の辛らつな評価が並んでいます。「審査会」委員は学識経験者だけでなく住民代表もいます。同じように地域で暮らし、働く「仲間」であるはずの人たちの、上から下を見下すような視線。それが、「いやな感じ」の理由なのかもしれません。
 評価・選考に先立ち、提案団体は「審査会」で事業の目的や内容を説明します。提案事業に難点があるならば、その場で指摘して、それをどのように改善していくのかをたずねることもできたはずです。玉と石とを選り分けるのではなく、そのように石を磨くのが事業の目的だったはずです。
 必要に応じて「補い助ける」ことこそ「仲間」としての役割・使命です。ところが、官尊民卑が根強い日本社会では、役所にかかわる地位や肩書きを得ると偉くなった気分になり、ヨコではなくタテの関係で物事を考え、話す人がいます。「仲間」に対する共感が弱くなるのは、そんな風土の名残りといえます。
 以上は自戒の言葉でもあります。私は横浜市指定管理者制度委員会の委員として、第三者評価機関の選考に関わっています。また、ぐらす・かわさきでは「ぐらす基金」の応募事業の選考を担当してきました。また、予備校講師をなりわいとしていて、他者に対する評価を日常業務としています。「上から目線」にならぬよう気をつけているつもりですが、同じ人間そして「仲間」として相手に共感し、それぞれの考えや行動を尊重しているかを自問し続けなければ…と痛感しています。
# by sosronbun | 2009-02-05 23:44 | まじめコラム

死を求める権利

 結構さぼってたので、連続で記事を投稿します。ある新聞社の雑誌に原稿を依頼されていて、それを書く前のウォーミングアップでもあります。
 昨日のNHKのクローズアップ現代は、人工呼吸器をはずすことを求めたALS患者を取り上げていました。ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは筋肉をつかさどる神経が病んでしまう難病です。症状は不可逆的に進行し、人工呼吸器を付けて延命する患者さんも少なくありません。その一人がかかりつけの病院に対して、人工呼吸器をはずして死ぬことを求める要望書をまとめました。これを病院はどのように受け止めたのか・・・という内容です。
 夕食準備をしながらだったので、しっかり見ることができなかったのですが、終わったあと「う~ん」とうなり、しばらく考え込まざるを得ない内容でした。それこそ二項対立的に判断できない難問です。第三者も参加した病院の倫理委員会は「患者の要望を受け止めるべし」とする意見をまとめましたが、最終的には、病院はこの意見を受け容れませんでした。いくら本人の要望に基づくとはいえ、人工呼吸器をはずすことは殺人罪または嘱託殺人罪のおそれが強いからです。過去にも、ALS患者の息子の要望を受け容れて人工呼吸器を外した母親が、嘱託殺人で有罪となる判決もありました。
 ゲストの柳田邦男さんは「個人的な死」という表現で、人間の死を一律的に定める刑法等の現行法への疑問をあげていました。しかし、法律とは客観的な基準を定めるもので、「個人的な死」のような人により異なる基準を設けることが苦手で、これを嫌う傾向すらあります。唯一の例外ともいえるのが脳死・臓器移植法で、本人と家族の同意という主観的な要素を脳死の正当化事由に盛り込んでいます。
 同様に本人の意思に基づき死を認めるというのは短絡的すぎる結論です。脳死・臓器移植法でも家族の同意を要件としているように、死は個人的であるとともに関係的なものだからです。また、本人の意思が終始一貫しているわけではありません。人間関係だけでなく、患者に対する社会的支援の有無や程度など環境によっても大きく左右されるでしょう。さらに、現状のように社会的支援が不十分な中で死を求める権利を認めることは、周囲が患者に死を強制することにもなりかねません。
 このような疑問を書き連ねるときりがなく、出口がまったく見えないので「う~ん」とうなってしまったのです。高知大学医学部のAO入試では「安楽死」がテーマに出ました。医学部で論文や面接を使う人は、「死を求める権利」をどう考えますか?法学部ではないので簡単に二項対立的な答えを出すのではなく、どこがどのように難しいのかを理解するとともに、その難しさに向き合い・悩みこむことが「正解」なのかもしれません。
# by sosronbun | 2009-02-03 17:29 | 医系論文

二項対立的な思考

 慶大法の論述力試験は、少なくとも過去15年間は3年周期で出題形式(設問内容)を変えてきました。これは、受験生が傾向に基づき対策を講じることへの「備え」ともいえます。過去3年間(2006-2008)は要約を求める出題だったので、当然、課題文の要約を練習しますよね。そんな対策バッチリの答案ばかりでは、入試の目的である「差」がつかないので、ときどき傾向を変えてリフレッシュするのでしょう。これをもっとも徹底しているのが慶大文です。この学部は毎年のように出題形式が違うので、解答方法を決め込まずに柔軟に対応することが必要です。駿台の青本にも3年周期説を紹介しましたが、さて、大学はどうでるか?
 慶大法のもう一つの傾向は二項対立です。2007・2008の出題は課題文を要約すると、テーマに関して二つの立場があることがわかります。これを仮にXとYと表現しますが、そのようにして論点・争点をつかんだ上で、いずれが正しいのかを論じさせる出題です。レギュラー授業や講習でも説明したように、二項対立は法学的思考の一つです。判例解説も原告X、被告Yそれぞれの主張と、それに対する裁判所の認識、判断を紹介するのが、よくあるパターンです。そもそも裁判というのは白黒を決着する手段なので、このような二項対立は不可避ともいえます。なお、2008年の東大後期試験は、輸血拒否をめぐる判決を課題文として出題し、判旨(論旨)の説明と、主要な争点に対する見解を問う出題でした。
 さすがに判決文は出ないとは思いますが、二項対立的な思考に慣れるとともに、その限界についても理解しておきましょう。限界とは人間の存在やそれぞれの考え・行動の多様性です。法学的思考に多少の冷たさを感じるのは、複雑であるはずの人間や社会を単純化し、ドライに判断するからに他なりません。「大岡裁き」のように人情を裁判に持ち込むことが好まれてきたのは、二項対立的な思考に対する人々の嫌悪感が背景にあるのかもしれません。一方、裁判に人情を持ち込むことは、きわめて危険でもああります。裁判所は劇場ではありません。
 裁判員制度がスタートする年です。皆さんは、どう考えますか?
# by sosronbun | 2009-02-03 16:21 | 社会科学系論文