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休憩時間の読みもの 科学的方法の限界

 テーマは「科学的方法の限界」です。こうした原理的なテーマの出題も考えられます。必ず法律と政治の分野から出題されるというわけではないので、アタマをほぐしておきましょう。

 筆者は科学の意義を認めつつも、その限界を指摘している。科学の限界は科学的方法の性格・内容からもたらされるものである。すなわち科学的方法は「普遍的な客観性」をもつものであり、「数字」や「数式」で表されるがゆえに誰にもわかるものである。また、科学的方法の基礎には「分析」があり、それらを「総合」し「法則」を見つけ出すことで物事をとらえることができる。そのため、物事の「質」にかかわる事柄は、たとえば枝ぶりの「特異さ」とか茶碗の曲線の「味」とかは科学の対象にならないと筆者はいう。
 科学が進展すればするほど、それによってすべての物事をとらえられるかのような錯覚が生まれる。それは、筆者からすれば「場ちがいの問題」だということになろう。しかし、社会を見回してみると、そうした「場ちがいの問題」を科学的方法のみによってとらえようとする例も決して少なくない。国や自治体で最近導入が相次いでいる〈政策評価〉などは、その典型的な例である。〈政策評価〉というのは〈行政評価〉、〈政策アセスメント〉とも呼ばれ、効率的な行政運営と行政に対する住民の満足度の向上をめざすための仕組みである。〈政策評価〉の中では、それぞれの政策目標が具体的な数値目標として設定され、それを参考に政策の成果を測定・評価されるという。
 確かに、これまでの国や自治体の仕事の中には、費用対効果の検証もされないため、ムダで非効率なものが少なくなかった。財政破綻ともいえる状況の中で、効率的な運営を進めるための仕組みとして〈政策評価〉に一定の意義はあろう。しかし、政策の成果や政策への満足度を数値化して測定する、つまり科学的方法をとるという点に私は違和感を覚える。そもそも満足度というのは主観的なものであり、これを客観的数値で示すことに限界がある。それだけでなく、国や自治体の仕事の中には数値だけでその成果を測れないものも多い。とりわけ人権、環境、福祉、文化などの政策分野については、数値化して測定できない価値もあるのではないか。だからこそ、〈政策評価〉を実施する際には筆者のいう「場ちがいの問題」にならぬよう、評価の基準、方法にさまざまな工夫が必要になる。
 もちろん、人権、環境、福祉、文化などの政策分野についても「質」の確保は必要である。科学的方法に限界があるのだとすれば、どのような方法で「質」を評価していくべきなのだろうか。キーワードになるのは「参加」だと私は考える。それぞれの政策には対象となる当事者がいる。さらに、関心をもっている人、専門性の高い人などの「参加」を得て、その主観的な評価を得ることで「質」の評価は可能になるだろう。主観的な評価だから誰にもわかるものではないが、何よりも「参加」という手続きを得ることで当事者たちの満足も得られやすい。つまり科学的方法の限界は民主主義で補うのである。
by sosronbun | 2008-02-16 12:41 | 過去の記事


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