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休憩時間の読みもの 安全・安心

 試験直前の休憩時間の読みものを提供します。テーマは「安全・安心」です。

 危険に対する許容度と安全に対する期待度は、個人と社会によって大きく異なる。両者の齟齬は何らかの調整によって妥協が図られるが、齟齬は価値や次元の対立に由来するため比較衡量することが困難で、あえて言えば不可能である。そこで、一つの基礎的な歯止めとして、「安全」を求めることを個人の権利として認め、権利保障が公共の福祉に反し、かつ法律的手続きに基づく場合は制約できると考えるべきだ。
 以上が筆者の問題提起の主旨である。危険に対する許容度と安全に対する期待度が大きく異なり、調整が容易でないことは筆者が指摘するとおりである。しかし、筆者が一つの基礎的な歯止めとして示した提案内容は果たして妥当だろうか。
 現代の日本は災害や犯罪に対する人びとの不安がきわめて大きくなり、安全・安心の確保が公共政策の重点目標の一つになっている。危険に対する個人の許容度が極端に低下し、逆に安全に対する期待度が極端に増加する状況にある。こうした中で、筆者が提案する「安全」を求める権利の保障は、国や自治体を中心に社会が負うべき責任を際限なく拡大させるおそれが強い。それは、災害や犯罪の被害にあった個人への補償額を押し上げる。それだけでなく、補償の回避・抑制をはかるために、社会が講ずべき被害の未然防止策の費用も増加させていく。これらの費用は“ 安全特需” ともいえる需要を生み出すが、過剰対策を国や自治体の財政でまかなう場合は無駄な公共事業と同じ性格・構造となろう。
 権利保障が招く期待度の極大化に歯止めをかけるべく、筆者は安全にカギカッコをつけて表記し、公共の福祉と法律的手続きという制約の余地を留保する。しかし、公共の福祉は主体や状況に影響されやすい概念であり、人びとの不安が増大する現代では制約概念になりにくい。また、法律を制定する政治家も大衆迎合的な傾向が強いため、少なくともこの問題における法律的手続きの抑制機能は認められない。そのため、「安全」を求める権利の保障は対費用効果を無視した公共政策を無数に生み出し、その無効性が明らかになったときの補償額を増大させる悪循環に陥る。
 危険に対する許容度と安全に対する期待度をめぐる調整は、個人の自己責任を原則にすべきだと私は考える。そうすることで個人の自律性とともに、社会における危険への対応能力が高まるからだ。自らの期待度・許容度を絶対視し社会に対して一方的に安全確保を求めるのは、「公共」や「国家」による管理強化を招く点でも危うい。社会は個人的対応を補完する役割に徹して、自律に必要な情報の公開と、実際に安全が脅かされ・危険にあったときの事後的な自立支援を中心に担うべきである。安全を守り・危険を回避するのは個人のエンパワーメントによるべきだと私は考える。
by sosronbun | 2008-02-16 12:31 | 過去の記事


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