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慶大法の復元合格答案

 論述力試験は14:30からですね。試験会場で携帯からアクセスしている人のために、いくつかの読みものを提供します。まずは、過去の復元合格答案。今年はあなたが書く番です!

○2006年入試
一、筆者は人の話を聞くことの重要性をまず指摘する。その際、話を聞くことは問うことであるとして、問う能力を重視する。つまり、問う能力の上手下手が取材の優劣を決めるが、特に学生にはこの能力が不足しているという。この問う能力、つまり問題発見や問題意識への訓練を教室で行うべきであり、学生は、臆することなく主体的に行動し、自ら情報を選択してそれを自律的な自我形成に役立てるべきだという。この筆者の議論には私は納得する部分が大きい。しかし、筆者が問題発見に関して一種の心構えのようなものを示すだけなのに対し、私は、問題発見能力は、情報化、グローバル化の巨大な波の中でも、それに呑まれず冷静な判断をするために大いに役立つものである点で意義深いことを指摘する。
二、私が人に話を聞きにいくときに大切だと考える点は、まず筆者と同様、問題意識である。自分は何を争点と考えるのか、それに対して自分はどのように考えているのかを明確に把握することだ。第二に、相手の話を聞き、それに対して自分の意見はどうか、相手との違いは何かを説明することである。以上の二点を挙げた理由は、これらを欠いてはテーマに対して何一つ掘り下げて考えることができないと考えるからだ。つまり、ただ聞く話すだけではなく、お互いの共通点、差異を説明して把握する事によってこそ、テーマに対しての認識をお互いに深めていくことができるのである。
三、私が聞き取り調査に行くと想定するならば、企業経営などの観点から、企業倫理に関して、その責任ある立場の人たちに調査をする。その際の質問に関して以下論じたい。まず、昨今の耐震偽造の問題などもそうであるが、その以前から、三菱自動車、雪印など、企業不祥事が目立つようになっている。私はその責任ある立場の人へ、情報公開の必要性と企業の役割についてどう考えるかを問いたい。これは犯罪を犯したものへの追及のように聞こえるかもしれないが、グローバル化に伴う激しい競争の中で、不正行為に走った者の言い分もあるだろう。それを聞いてみたいと同時に、公益通報者保護法が施行段階にあり、企業にはより一層その透明性が求められるようになる。これに対して企業責任者達は、社外取締役の設置、会計事務所の短期交替の義務づけなど、様々な方策が考えられる中でどう取り組むべきなのかということを彼らとともに掘り下げたいと考える。以上が私の現状認識とそれに基づく質問の用意である。

○2005年入試

☆Aさんの答案
 日本は暴政への道を辿っている、しかし私たちは自分を取り巻く環境に慣れっこになりがちであるため、そのことに気がつかないのである。また、この「暴政」とは、『「政治共同体全体にとっての善」に反する政治』のことを指す。筆者は以上のように述べているが、この「暴政」とはつまり、現代の不平等社会のことではないか、と私は考える。終戦から暦を一つ還り、二世・三世社会が形成されてくると、裕福な家庭に生まれた子どもは高い教育を受け、将来的に高い水準の生活をおくるだろう。しかし一方で、増加するフリーターはその収入を体力に頼る場合が多く、その子ども達が成長するにつれて生活は苦しくなるのである。こうした矛盾を生み出す現代の社会こそが「暴政」である。
 筆者は、私たちはこうした現状に気づいていないと指摘していたが、果たして私たちは本道に気がついていないのだろうか。筆者の意見に反して、今日の状況は私たちが見過ごすことができるほど甘いものではない。実際公園や地下道、川岸などのホームレスは、目に見える速さで増えている。では、こういった問題を解決するにはどうしたら良いのだろうか。
 そのためには、国民が動くしかないのである。国民に「共通」する問題を対処するのであれば、国民の意見を聞くことは不可欠である。しかし政府やその他行政機関で多くの国民の生きた声を完全に反映することは難しい。そこで登場するのが、インターネットやNGOの活用である。例えば、ゆとり教育について関心を示す人々がネット上で意見を交わし合ったり、また公的研究委員会等のホームページに意見や質問をよせることは気軽にできる。こういった情報網をきっかけとして実際にNGOに協力したり、または創設したりすれば、国民の活動は活性化する。残る問題は、個人個人の意見交換やNGOには強い行使力がないことであり、その点では権力を持つ公的機関の助けを必要とする。権力を持つが国民との関係性が薄くなりがちである公的機関と、国民や市民との結びつきの強い民間団体とが、互いに上手に連携することで、「共通善」に反する矛盾へ対処できるだろう。

☆Bさんの答案
 「共通善」とは政治共同体全体にとっての善であり、「暴政」とは「共通全」に反する政治、すなわち一部の権力に利益を誘導する政治である。日本人は独裁者による暴政を過去の存在と考えがちだが、人間は周囲の環境に慣れやすく、現状の危機的本質を過小評価する傾向があることを考慮すれば、現在の日本の政治が「共通善」を実現しているとは言い難く、自分たちは現在の政治に対し適切な政治的判断能力を保持しているだろうかと筆者は警鐘を鳴らしている。
 私も筆者の批評に賛同する。だが「共通全」を実現しない日本の政治に対し何故人々は傍観してしまうのであろうか。以下ではその原因を考察し、改善策の提案を試みたい。
 私はこの問題提起に対し、概念上は国民主権が提唱される反面、実際は国家権力が国民から独立する傾向にあるからだと判断する。そもそも国家はなぜ存在するのか。それは、対外的には国民主権の総体である主権国家として外交を展開し、対外勢力との協調関係を構築して国民の安全を保持するためであり、国内的には国民の権利を保障して、自由競争下での利害を調節するためである。つまり国民は自らの権利を国家に信託しているのであって譲渡しているのでは断じてない。
 だがその概念とは裏腹に、現実には国家権力は本来の存在の前提を越え、選挙により選出されたはずの一部の政治家たちの下で、国民の意向を軽視しているのではないか。例えば、イラク戦争を考えてみる。自衛隊の海外派遣に際し、国民には判断の機会はなく、むしろ派遣反対の署名運動などは無視される結果に終わった。すなわち国家は国民を離れて独立傾向にあると言える。
 この現状は改善すべきだ。確かに国民の個々の権利を尊重し、その意見を考慮することは、国政方針の統一上困難なことであるである。しかし、国家の存在意義が国民の権利を信託されてその安全保障に勤めることにある以上、国民の意向を離れた政治決定はその存在の前提を無視する行為であって、承認すべきではない。
従って、国家はその権力を分散して国民の意向を反映すべきだ。地方自治体に政治的権限の一部を委ねて国民の生活に密着した地域参加型社会を形成し、その一方で重大な国策決定に際しては国民選挙を実施するなど、国民個人の政治意識を高めてその判断能力を養うことが現状の改善には不可欠なのである。
by sosronbun | 2008-02-16 12:25 | 過去の記事


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