明日15日は慶大文の入試ですね。出題形式が毎年変わる学部なので、予断を捨てて、まずは設問を読んで、問われていることを確認しましょう。その上で課題文を読んで、その中に設問が求める「答え」や、解答のための「ヒント」を見つけてください。
試験前に携帯でも読めるように、昨年の合格者の復元合格答案を一時的にアップしておきます。これを読んで「合格」のイメージ・トレーニングをして、落ち着いて試験に臨んでください。今年は、あなたに「復元合格答案」の作成をお願いします。 ***昨年の復元合格答案*** ☆Aさん 設問Ⅰ サルトルの問いは、文学作品を享受するのは平時を生きる「われわれ」であって、非常事態を生きる「彼ら」ではないという前提にたっている。しかし、人間らしく生きることを否定された非常事態を生きる人々にとって、文学とは人間としての尊厳を回復する営みであり、それは真に生きる糧となる。従って文学の根底には誰でも例外なく救える力があり、「われわれ」も「彼ら」も文学作品の享受者として同様に救われうるという理由による。 設問Ⅱ 文学の重要な性質の一つに、時間を越えることができるという点があげられる。私たちが知らない時代へも、文学は私たちに足を踏み入れる機会を与えてくれる。つまり、後世の人間に、その時代の「現在」を伝えてくれるのだ。この性質は、戦争を知らない世代が戦争の残酷さを学ぶ上で、重要な役割を果たすものである。 筆者は非常事態を生きるものにたちにとって、文学は「生きる糧」となりえることを指摘し、文学が「戦争」の対義語であることを主張している。しかし、平時を生きる「われわれ」にとって文学が「生きる糧」となりえる瞬間は、まさに文学が「戦争」と同義語となって、「戦争」の残酷さを現在に知らしめるときなのである。こうした過程を通じて、私たちは平和の尊さをも知ることができる。 テオドール・アドルノは「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と述べたが、アウシュヴィッツの後で書かれる詩は、後世の人間の「生きる糧」となり得る可能性を秘めている。戦時の過酷な体験は、後世の人間にとっても貴重な財産なのである。 以上のように、文学によって「戦争」を知るという体験の重要さから、私は文学は「「戦争」の対義語」たりえないと考える。 ☆Bさん 設問Ⅰ 文学作品を享受するのは平時に生きる者のみであるということを前提として、サルトルは非常事態を生きる者にとって文学作品は意味のないものではないか、という問いを発した。それに対して、包囲されたサラエヴォで「ゴドーを待ちながら」を上演し、その上演を見にやってくる人々がいたという事実は、平時に生きる者に限らず、非常時を生きる者にも文学作品が必要とされ、意味のあるものだと答えていることに他ならないからである。 設問Ⅱ アドルノは辛い現実を体験した後に詩を書くことが、辛さを忘れて幸せボケをすることだと考える。文学作品は平時を生きる者たちによる産物であって、戦争の苦しみを乗り越える手段としては力量不足であり、戦争の対義語足り得ないとする。一方、筆者は戦時を生きる人々にこそ文学が必要で、戦争の対義語として文学が希求されていると考える。私は筆者を支持する。私の祖母の第二次世界大戦中の経験は、まさに文学の持つ活力を表わしており、筆者の意見と重なるからだ。祖母は爆撃を逃れ防空壕にいるとき、いつ終わるかわからない恐怖から逃れるために頭の中で話を作ったり思い出したりしたという。平和な環境に住む我々が例え映画で感動して泣きじゃくったとしても、翌朝には自分の住む現実世界に戻り生活を送るであろう。しかし、戦時を生きた者は自らの生活の悲惨さから現実に立ち戻ることを望まず、文学作品に没頭することで現実を逃避した。文学作品は、死と隣り合わせの環境では生きる糧であったのだ。一人の力ではどうにもならず、時が過ぎ去るのを待つしかない戦争の中に人が人として生き抜くためには、精神を文学作品の中に置き、対抗する以外の道を見出せるだろうか。文学は十分に戦争の対義語足りえている。
by sosronbun
| 2008-02-14 22:50
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